手順書を渡して、横について教えた。
それでも新人が、手順書どおりに動けない…。
経験者を採っても、うちのやり方に慣れるまで半年かかる。
こういう話をよく聞きますし、私も現場で何度も見てきました。
先に結論を言うと、本人の理解が遅いわけでも、教え方が下手なわけでもありません。
手順書に書いてあることと、ベテランが実際にやっていることが違うんです。
この記事では、手順書に無い「判断点」とは何か、なぜベテラン本人に書かせてはいけないのか、そして1つの作業から言葉にする順番を説明します。
手順書に書いてあるのは動作で、無いのは判断
手順書に書いてあるのは「動作」です。
何番の治具を付ける、この順番で締める、ここで確認する。
これは読めば分かりますし、横で見ればまねできます。だから新人は、手順書どおりの動作はできています。

じゃあ、どこで詰まるのか?
動作と動作の間にある「判断」です。
- この音なら進めていい
- この面の光り方なら止めたほうがいい
- ここまでズレたら一つ前に戻る
ベテランはこれを一瞬で、ほとんど無意識にやっています。そして手順書には、これが一行も書いてありません。
というか、書けないんです。
本人に聞いても「なんとなく」としか返ってこないからです。
これはベテランが意地悪なわけでも、説明が下手なわけでもなくて、技能というものの性質です。
ハンガリー生まれの科学者で哲学者のマイケル・ポランニーという人が、1966年に『暗黙知の次元』(筑摩書房)という本で「私たちは、語れることよりも多くのことを知っている」と書きました。
言葉にできる部分は持っている技能のほんの一部で、残りは体の中にある。
手順書は、その「一部」のほうを書いた紙なんです。
手順書を渡しても覚えないのは、渡し方の問題
ここまで分かると、新人の側で何が起きているかも見えてきます。
新人は、手順書の動作を追いながら、ベテランの手元を見て、同時に「今のはどこを見て判断したんだろう」と考えています。
見るもの、やること、判断すること。この三つを一度に頭に入れている状態です。
人が一度に処理できる量には上限があって、前提になる知識が無いまま全部を同時に渡すと、学習そのものが止まります。
教育心理学ではこれを認知負荷と呼んでいて、オーストラリアのジョン・スウェラーという研究者が1988年に理論にしました。
「手順書を渡したのに覚えない」は、本人の頭の問題ではなくて、渡し方の問題だと説明がつくんです。
教えるのが上手い人が異動すると、判断点ごといなくなる
現場で、こういうことが起きていませんか?
教えるのが上手い人がいる間は新人が育つのに、その人が異動した途端に育たなくなる。
あれは、上手い人が自分の頭の中の判断点を、自分の言葉で渡していたからです。
その人がいなくなると、判断点ごといなくなります。
会社に残っていたのは手順書だけで、判断は個人の中にあった、ということです。
だから、教えるのが上手い人を会社の安心材料にするのは、本当は危ないんです。
ベテランに書かせない。こちらが聞いて、こちらが書く
では、どうするか。
やることは一つで、ベテランの頭の中にある判断点を、言葉にして紙に落とすことです。
ただし、ここで一番やってはいけないのが、ベテラン本人に「手順書を作ってくれ」と頼むことです。
本人に書かせると、動作だけ書いて終わります。判断点は本人にとって当たり前すぎて、書く対象に見えていないからです。
やり方は逆で、こちらが観察して、質問して、こちらが書きます。
これは手法として確立していて、認知的タスク分析と呼ばれています。「難しかったけれど、うまくいった場面」を思い出してもらって、そのときに何を見て、何を決めたかを順にたどる。
日本でも労働政策研究・研修機構の研究員が、キャリア相談のカンとコツを取り出す研究に使っています。
聞き方は、前に書いた「どうやるんですか」では判断基準は出ないという記事に5つの質問があるので、そちらを使ってください。
1つの作業を1週間で、書くのは3つだけ
全部の作業を言葉にしようとすると、始まる前に終わります。

安全か品質に関わる作業を一つ選んで、一週間、ベテランの横に立つ。
書くのは三つだけです。
- 見る順番=ベテランが、何を、どの順で見ているか
- 判断に使う目印=進めていい、止めたほうがいい、と決めている手がかり
- やってはいけない条件=ここまでズレたら戻る、という線
それだけで、新人がどこで詰まるかが見えてきます。
時間が無いからこそ、1回書いて3回使う
それでも「そんな時間は無い!人が足りないのに」と言われると思います。
一番多い反論ですし、一番もっともです。
だから、書いたものがどこに流れるかを見てください。

一度言葉にした判断点は、三か所で使えます。
- 教育=新人に教える教材になる。動画も手順書も、判断点が言葉になっていれば作れる(動画マニュアルは撮る前に決まる)
- 採用=「仕事に近い課題」として出せる。入口で見極めるには同じ条件で見る課題が要るが、その課題は判断が言葉になっていないと作れない
- AI=現場の道具を作るときの材料になる。前の記事で、現場に渡すのはAIで作った道具と言語化した手順だと書いたが、その言語化がこれ
一回書いて三回使うので、教え直す回数が減ります。
時間が無いからこそ、先にやる価値があります。
指導する人が足りないのは、あなたの会社だけではない
指導する人が足りないのは、あなたの会社だけではありません。
厚生労働省の令和6年度の能力開発基本調査では、人材育成に何らかの問題があると答えた事業所が約8割で、その中身で一番多いのが「指導する人材が不足している」でした。

指導者が足りないなら、指導者を増やすか、指導者の頭の中を言葉にして複数人で使うかしかなくて、前者は今すぐにはできません。
だから後者なんです。
経営学者の野中郁次郎さんは、暗黙知を言葉にして形式知にし、それを別の人がまた体で覚え直す、この往復が回って初めて知識が組織に残る、と説明しました(SECIモデル)。
言葉にしないと、この往復が始まらないんです。
私の原則は一つ。先に仕事を言葉にする
私の原則は一つです。
採用でも教育でも、先に仕事を言葉にする。
言葉になっていない仕事は、選ぶことも教えることもできません。
そして、ベテランの頭の中を言葉にするのは、ベテラン本人の仕事ではなく、設計する側の仕事です。
ベテランには、見せてもらって、聞かせてもらう。書くのはこちらです。
明日できること=3つの問いに○×を付ける
明日できることを一つだけ挙げるなら、紙に三つの問いを書いて、○×を付けてください。
- 安全か品質に関わる作業を、一つ選べるか
- その作業で、ベテランが見ている目印を三つ言えるか
- 新人が最初に詰まる場所を言えるか
×が付いたところが、先に手を入れる場所です。
どこから手を入れるか迷ったら、教育設計のチェックシートで、自分の会社の抜けを確かめてください。
